『悲しい秘密』(10) 【終】
【十、私のお母さん】
そして自宅に戻った私は、店先で気抜けた表情をして立ちすくむ母にこう告げた。
「お母さん、さっきはごめんなさい。でも私、決めたの。聞いてくれるわよね?」
母は、何も言わなかった。ただただ呆然として、一つ頷くだけだった。
「私ね、思ったの。あの手紙がある以上、お恵さんとお母さんとの間にあった出来事はみんな本当のことなんだって…」
母は、それでも何も言わなかった。
「だから私、お母さんと…お恵さん――私を産んでくれたお母さんとの間にあった出来事を信じようと思うの」
母の眉が、ぴくりと動く。
「それで私、私を産んでくれたお母さんと私を育ててくれたお母さん――二人とも私の本当のお母さんだって認めようと思うの。だって、どっちも私の本当のお母さんとして接してくれていたのでしょう?だったら私も本当の娘として接していたいの。これからもずっとね」
口角を上げて得意の笑みを送ると、固く閉ざされた母の口が開き、微かなささやきがもれた。
「尚…っ」
母の小さな瞳から、次々に涙があふれ出す。
「私、あなたを失うのが怖かった…。尚があのままどこかへ行っちゃうんじゃないかって、気が気じゃなかったの…」
その母の言葉が嬉しくて、私は思わず母に駆け寄ってぎゅっと抱きしめた。
「バカね。私はどこにも行かないわよ。ホント、お母さんは心配性なんだから…」
そういう私の言葉にも、涙が交じる。
「お恵さんがあなたを誰より思っていた気持ちは本当…。でも、彼女も人間だから、きっと不安もあったわ。彼女は、自分のせいであなたを『不幸』な道へ巻き込んでしまうと思った。私にあなたを託したのはそのせいね。彼女が私を信頼してくれていたからこそ、大切な娘を預けてくれたわけだから、私もそれに応えたかった。だから私はあなたを――尚を、これまでずっと大切に大切に育ててきたの」
「お母さん…」
私が母の背中をつかむ手に、また母が私の背中をなでる手に、力がこもる。
私は誤解していた。私はちゃんとどちらにも愛されていた。
私は紛れもなくお照の娘であり、お恵の娘なのだ。
【終章】
次の日。お尚は、店まで迎えに来た女中仲間のお清に呼ばれて、元気に走って行った。
お清とお照とは、だいぶ前に一度顔を合わせている。
「あら、お清ちゃん。久しぶりね。どう、尚はお城でうまくやってるの?」
心配そうに娘を見送るお照に、お尚は口を尖らせた。
「もう、大丈夫だって言ったじゃない。お母さんたら、まったく心配性なんだから」
「そうですわ。娘さんは強い方ですし、それに私もいますから」
お清もそう言って宥めたが、お尚は更に不満そうに頬を膨らませる。
「私が強いってどういう意味よ?」
そう呟く彼女の耳に、お清がささやく。
「私達は大丈夫だから、心配しないでね…って意味よ。あなただって、お母様に心配かけたくないでしょう?」
「そ、そうね…」
まだちょっと不服そうだったが、お清の意見に賛同して、彼女はお照と住みなれたこの家に別れを告げた。
「それじゃ、お母さん。行ってきます!」
「頑張ってくるのよ、尚!」
そうして去っていく娘の後ろ姿を見つめながら、お照はふと思う。
娘の背中は、あんなにたくましかっただろうか…と。それと同時に、ふと“あの人”のことを思い出した。
空を見上げ、この同じ空を見ているであろう彼女に向けて心の中で呟く。
――お恵さん。あなたの娘は、こんなに立派に育っていますよ。
彼女の思いに応えるように、どこからか吹いたあたたかい風が、お照の頬を優しくなでた。
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