『姫君は算術がお好き?』(1)
1.初夏の出会い
※ロケ地:浜松城(静岡県浜松市)
西ノ森(にしのもり)城は、言わずと知れた桜の名所である。
元々は城主の趣味で植えられたこの樹だが、今では毎年花見の季節に城下から見物客が来るほどの人気となって、城一帯に賑わいを見せている。
それだけじゃない。春に満開の花を咲かせたその樹は、夏には一面に茂る青葉、秋には紅く色づく桜紅葉、そして冬には全てが枯れ落ち、美しい樹木が肌を露わにする。その一つ一つが、また異なる魅力を醸し出していた。
私が彼女と出会ったのは、そんな花が散り、青葉が茂る一歩手前の――初夏、淡い花に若葉の交じる葉桜の季節だった。
その日、女中頭のお鈴(すず)に言いつけられて、城の奥にある用具倉庫で探し物をしていた私は、ふと視線の先に見覚えのない扉を見つけた。
無造作に積まれた荷物の向こうの、埃にまみれた古い扉。十年以上勤め続け、城の内部を熟知していると思っている私ですら、今の今までその存在に気付かなかった扉。
だからその奥がどこに繋がっているか、私は知らなかった。そして不覚にも、その奥がどうなっているか見てみたいと思ってしまった。私には仕事がある、こんな扉のことなど無視したらいい。そんな警告が、無意識に頭の片隅へ追いやられる。
――だめ、もう我慢できない。
私は手前の荷物を一つずつ持ち上げ、扉の前に立つ。そして取っ手に手をかけ、思い切り引いた。
ギイ……。古びた扉が、気味の悪い音を立ててきしむ。そこで私が見たものは、上へ上へと続く、狭く暗い階段だった。一体どこへ続いているのだろう、と臆することなく階段を上がる。そこは本当に狭くて、屈んでもようやく通れるくらいの隙間しかなかった。
やがて小さな光が見えてくると、私はこれまた狭い廊下に出た。けれど右手には大きな窓があり、その窓からは青々とした空が見える。ふう、と息をつき窓の外を眺めると、そこから遥か下に、広大な庭と青い葉の交じる桜の木とが見えた。もしかして私は、西ノ森城の天守閣に来てしまったんだろうか。
「あの」
声をかけられて、後ろに人がいたことに気付く。振り向けば、そこには藤色の上質な打ちかけを着た見知らぬ美少女が立っていた。眼鏡をかけて丸顔で、白い頬にはエクボが二つ。肩に下ろした髪は、やや波打っており、背は人並みの私に比べると頭一つ分くらい低く、幾分小柄だ――私がちょっぴりふっくらしている、ということはこの際置いといて。
「あら、ごめんなさい。わざとじゃないんです。すぐに出ていきますから」
階段の方へ足を向ける私の言葉をさえぎるかのように、彼女が続ける。
「ここに来客なんて珍しいわ。あなた、一体どなたなの?」
「え? あの、私、来客じゃなくて。その、すぐに出て行きますから」
動揺を隠せずにいる私をよそに、彼女は「来客じゃない」という部分を無視してその手を取る。
「それは困るわ。折角来てくださったお客様をそのまま帰すなんて、私にはできないもの」
「え、っと……」
「ね、いいでしょう。私、退屈してたの。少しだけでもいいわ。一緒にお話しましょう?」
半ば懇願するような目つきと、天使のような微笑みに、私は思わず頷いていた。そう、少しだけなら。少しだけなら、時間はあるわ。
「じゃあ、私の部屋に行きましょう」
と、私の手を引いた彼女が向かいの障子を開けようとして、急に咳き込み始めた。苦しそうな咳は、しばらく続き、彼女は “へなへな” とうずくまる。
「……大丈夫、ですか?」
心配になった私が声をかけたところで、私でも彼女でもない別の声が交じった。
「大丈夫なわけないだろ!」
ややかすれ気味の、女性にしては低い、力強い声。思わず顔を上げると、いつの間にか、開いた障子の前に、恰幅のいい女が仁王立ちしていた。
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