『姫君は算術がお好き?』(2)


2.もう一人の笑わぬ姫君


「あんた、この城の女中かい? こんなところで何やってる? どうやってここに入った?」

 吊り上げた凛々しい眉と、射るように私を見る大きな瞳。背は私より少し高いが、その丸い顔と、血色のいい白い頬は少女にも似ている気がする。彼女もまた上質な打ちかけを羽織っているところからして、城主様のご側室の方かしら、と私は思った。もっとも、彼女のものは藍色がかっていて柄も少女のものとは違っていたのだが。

「いえ、あの、私は……」

 有無を言わせぬ口調に尻込みしそうになりながらも、何とかこらえる。けれど女はそんな私に一瞥(いちべつ)をくれただけで、少女の方に駆け寄った。

「ああ……陽姫、大丈夫かい? 苦しいだろ? さあ、早くお布団に戻ろうね」

 ヨウヒメ。ああ、それが少女の名前なのか、と思う。姫――やっぱりお姫様なんだ。それにしては今まで一度も見たことがなかったというのが不思議でならないけれど、あの咳は大丈夫なのだろうか。もう一つ、見たところあの階段以外に入口がないようだけれど、ちゃんと医者にはかかっているのだろうか。

 そんなことを考えながら、私は少女を支えて障子の向こうへ消える女の姿を見つめていた。

 障子がパタンと閉まり、しばらくすると今度は女だけが廊下にやってきた。


「あんた、まだいたのかい」

 私の返事を求めずに、女は続ける。

「あの子は私の妹の陽(よう)。そして私が姉の鞠(まり)。私達は、ここの城主の姪――いや、今は養女だけどね」

「城主様の、養女?」

 鞠姫様は頷く。そう、ご側室の方じゃなくて、姪御さんだったのね。そしてあの少女――陽姫様のお姉様だった。

 ふと、彼女の表情がかげる。

「あの子――陽はね、小さい頃、重い病気にかかったんだ。その頃には父さんも母さんも死んじまっていて、私達は叔母さん――城主の末の妹のところで暮らしてた。でも叔母さんのところじゃ陽の病気は治らないって。そこで伯父さんが気を利かせてくれて、この隔離部屋を用意してくれた。もう二十年になるかな、ここでの生活も」

「二十年……」

 私がこの城にいる、その倍の年数だ。それよりも、来て二十年ということはあの少女は二十歳(はたち)をとっくに超えているということか。それにしては随分と幼い気もしたが、それもやはり病気のせいなのだろうか。

「そうだよ。あの子も二十代後半、私も、もうじき三十になる。まあ、あの子は丸顔のせいか、同年代の子らよりも少し幼く見えるところがあるけどね――あ、丸顔は私も一緒か。それにしては私が若く見られることはないねえ、それともこの性格が問題か」

 そう言ってハハハと笑う鞠姫様は、初めに見たときよりも、とても気さくな方だった。

 陽姫様が二十代後半だと聞いて、しかも詳しく聞いたところには私と同い年だと知ったときには仰天した。でもそれが病気のせいじゃないと分かったときは、少し安心もした。何だ、思ったより元気そうじゃない、と。

「陽姫様の咳――発作って、いつもあんなご様子ですか?」

「まあね。幸い、あれ以上ひどくなったことはないけど。大体、いつもあんな感じだよ」

「そうですか……」

 鞠姫様は窓の縁(ふち)に手をつき、空を見上げて言った。

「城に来てから、あの子の発作は大分良くなったけど、その代わり笑顔は少なくなった。病のせいで自分に絶望しちまってんだよ、まだ二十代なのにさ。ああ、あと、半分は私のせいだな。あの子、罪悪感強いからさ。地位も名誉も何もかも捨てて何十年とあの子の看病してきた私に、罪意識感じちゃってるんだよ。そんなもの、罪でもなんでもないのに。私はあの子のためなら何も惜しくないってこと、分からないのかねえ」


 笑わぬ姫君。確か、幼少期の心的外傷(トラウマ)だったか何かで笑うことができなくなった、城主様の実娘――藤姫(とうひめ)様のあだ名だ。陽姫様が城主様の姪だから、彼女の従姉妹(いとこ)。同じこの西ノ森城で、笑うことができなくなったもう一人のお姫様。


 でもあのとき彼女が私に見せた微笑みは、天使そのものだった。

 私はその笑顔を、守りきることができるのだろうか。

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