『笑わぬ姫君』(3)

「…あの子には会ったかしら?」

 気づくとそこには、あの奥方様の姿があった。

「奥方様…」

 奥方様は腕を組み、細い目を更に細めて私達を見る。

「ふうん…。なかなか似合ってるじゃない…」

「あ、ありがとうございます…」

 とっさに頭を下げたが、ふとある疑問が頭の中に思い浮かんだ。

 奥方様は、何をしにここに来たのだろう?まさか、着物が似合っていることだけを伝えるためにここに来たのではないはず。

「あの…それで、なにか御用でしょうか?」

「ええ、」と彼女は頷く。

「あの子の様子、見たでしょう?」

 あの子……つまりは彼女の愛娘である藤姫様のことだ。

 初めて見た彼女の姿は、それはもう美しく、だがどこか寂しげな様子が窺われた。お尚は、そんな彼女をあまり快く思っていないようだったけれど…。

 案の定、お尚は再び顔を上気させる。

「ええ、見ましたわ!でも、あれは酷すぎる!!彼女ったら、挨拶もしないで…」

 そう言って再び怒りに肩を震わせるお尚を、奥方様は、いともたやすくかわした。

「……そう、それはごめんなさいね」

「あ…、え、ええ…」

 無理矢理納得させられた風に、お尚は口ごもる。

 けど私はそれより、ポーカーフェイスな奥方様の目にも、姫様と同じくどこか寂しげな影があったのが気になっていた。

 お尚はというと、いつの間にか怒りを忘れ、彼女の話に聴き入っている。

「もうかれこれ十年ほど前からあんな調子なの。何を言おうにも、聞く耳持たずで。昔は、よく笑う子だったんだけどね…」

 そして私達の目を順に見据え、こう続けた。

「でも、あなた達が来てくれたから、これでもう安心だわ。あなた達ならきっと、娘を笑わせられると信じてる……それじゃあ、頑張ってちょうだい」

 奥方様はその言葉をあとに、再び部屋を出て行かれた。 私も、おそらくお尚も、そんな彼女の背中を黙って見ているほかなかった。

 そして窓の外では、もう日が傾きかけていた。


 夜になり、食事を終えて、私とお尚は女中のお鈴から、大量の雑用を命じられたとこだった。

「何よ、あの人!『はあ、あんたらの名前なんてどうでもいいんだがな、そんなこと言ってる暇あるんなら、早く手を動かしな』ですって!?私達は、姫様を笑わせるためにここに来たんだっての!」

 怒りに頬を染めて、眼鏡をずり上げる真似をしながらお尚は言った。

「お節が姑なら、お鈴は小姑だわ!めんどくさいったらありゃしない!私、姑も小姑もいないけど!」

 というのは、お鈴もお節様も古くからの形式にこだわるタイプで、二人がどことなく似ているからだろう。

「『小姑一人は鬼千匹に向かう』…ね」

「こじゅ…て、なに?」

 お尚は顔をしかめたまま、小首をかしげる。

「小姑というのは、鬼が千匹いるみたいに面倒なものだって意味のことわざよ」

「鬼が千匹?そりゃあ、面倒だわね!でも、お節とお鈴なら、一万匹くらいいるんじゃない?ありゃ、絶対千匹なんてもんじゃないわよ!」

 思わず手を止めて、腹を抱えて笑いだすお尚。私はもう、溜息をつくほかなかった。

「もう…。私達、こんなことしてる場合じゃないのよ?早く終わらせて、姫様のもとに行かないと…」

「それは、そうだけど…」

 急に大人しくなって、お尚は再び手を動かし始める。

「それじゃあ、私はあっちをやるから、お尚さんは向こうをお願いね」

「ええ」

 そして私達は左右に分かれて、早くこの雑用を終えてしまおうと急いだ。


 この場所を通るのは、一体何度目だろう――同じような板の上を何度も往復しながら、私は考えた。

 長い廊下を歩いていると、時々方向感覚がおかしくなる。おそらくそれは私がまだこの城に慣れていないからだろうが、初めてここに来た身としてはまるで迷路の中を歩いているように思えた。

「ん…?」

 ふと視界にどこからか月明かりが差し込み、私は思わず光の差す方向に顔を向ける。半ば反射的に、私はその光に吸い寄せられるようにして道を進んだ。

「あ…あれは…」

 月明かりに照らされた、黒く艶やかな長い髪。碧く立派な着物も、月の光を受けて明るく輝いている。間違いない……あれは、藤姫様だわ。寂しげに月を見つめるそのお姿は、月に帰りたいと嘆くかぐや姫を思わせるものがあった。

「誰かいるの?」

「えっ……」

 不意に声をかけられ、私は、姫様がこちらを見ていることに気づきました。姫様は美しい顔を歪め、警戒心もあらわに私を睨みつける。

「ひ、姫様……。申し訳ありません、私……」

 頭を下げる私の上で、姫様はおっしゃいました。

「……あなた、たしか、お清と言ったわね?」

「ええ…」

 すると姫様は再び庭の方に視線を移し、大きくため息をついた。

「……母様が何を言ったかは知らないけど、私のまわりをうろつかないでちょうだい。私には、誰の力も必要ない。これまでだってずっとそうしてきたの。そう……私はずっと一人だったわ。あの日から、ずっとね。」

 月を見上げた姫様の横顔に、強がりの奥に秘められた寂しさを感じました。

 やはり、姫様は何か抱えていらっしゃる……。

 でも、その固く閉ざされた殻を打ち破るのは、安易なことではなさそうです。これは、想像以上に手強い相手だ……そうと分かると、何だか俄然やる気が出てきた気がしました。

「私、絶対あなたに笑顔を取り戻してみせますわ!」

 私は、姫様に向けてそうきっぱりと言い放った。彼女は、そんな私の発言に驚いていたようだったけれど……。

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