『姫君は算術がお好き?』(15) 【終】
15.初夏の風に乗って
お陽が亡くなって、十年が過ぎた。それでも、私の中の彼女との思い出は未だに色あせない。それどころか、日を増すごとに深く、強く、ずっと色濃くなっている気がする。
私は今年、女中頭に昇進した。婚家から通いで働いているのは変わらないが、城の様子はというと、すっかり変わってしまっていた。
この数年、新しい女中も増えたし、逆に城を去っていった女中もいる。
特にお鷹は、鞠姫様がお陽の死を受けて城をあとにしたのに続いて、追うように辞めていった。これからは、私が鞠姫様をお守りしていく。あの日そう誓っていた彼女は、今も鞠姫様のそばで暮らしているのだろう、と思う。
――きっと、あの二人なら大丈夫よね。
「すみませーん、お松さんにお届けものです」
「あ、はい」
通用口にやってきた飛脚(いわゆる、後世でいうところの郵便屋さん)から荷物を受け取り、中身を確認する。そこには、小さな封筒に包まれて、桜の葉が一枚だけ入っていた。
「これ……」
飛脚は首をかしげて帰って行ったが、私にはすぐに分かった。これが、誰が何のために送ってきたものなのか。
「香坂さん、あなたは本当にぶっきらぼうな人ね」
一枚の桜の葉――お陽が好きだった葉桜。それを知っているのは、限られた人しかいない。中でもこんな形で送ってくるような人は、彼だけだ。
「そうか……今日は、お陽の命日だものね」
彼はあれから、毎年お陽の命日になると桜の葉を送ってきていた。手紙などはなく、ただ桜の葉だけ。でもそれがまた彼らしいと思った。
「今年も、ちゃんとお供えするからね」
裏庭に出て、お陽の墓碑の前にしゃがみ込む。そこに先ほどの桜の葉とお線香を供えて、手を合わせ、黙祷を捧げた。
――お陽、生きていてくれてありがとう。
あの日彼女に出会えたことを、私は本当に感謝している。彼女と過ごした約一年間は、私にとってかけがえのない時間だった。何にも換えられない、特別な時間。
――ねえ、今でも、私達のこと見守っていてくれてるかしら?
そう語りかけたそのとき、背後から近づいてくる気配に気づいた。
「おや、あんたも来てたのかい」
声をかけられて、私は確信する。やや掠れ気味の、力強い低音。間違いない、この声は――。
「鞠姫様!」
言うと同時に振り向けば、そこには恰幅のいい一人の女――鞠姫様の姿があった。
お陽の墓碑前にひざまずき、合掌して祈祷をする彼女の姿を、私はじっと待つ。遠慮のない口調は相変わらずだが、身なりはというと、すっかり町民の女性みたいな恰好が様になっていた。
「……鞠姫様。どうして、こちらに?」
「理由? そんなもんないよ。ただ、あの子が亡くなって、ちょうど十年だからさ。たまには、こうして帰ってきて、挨拶してやんないとなって思っただけだよ」
そうか、鞠姫様は妹様想いだから――。
「あんたも、陽のためにこうしてお参りしてくれたんだろう?」
こくり、と頷く。
「あんたみたいなやつが友達で、あの子は幸せだっただろうね」
「それって、どういう……?」
「あんたは間違いなく、あの子にとってかけがえのない存在だったってことさ」
姉として感謝している、と言う。いつも孤独だった妹の「友達」になってくれたことを。
「そんな……感謝されるほどのことじゃありません。私はただ……」
「分かってる。でも、あんたがあの子の支えになっていたことは事実だ。それは変わらないし、だからこそ感謝したい」
「鞠姫様……」
あの彼女がそんな風に言うなんて意外だったが、言いたいことは分からなくもないような気がした。
「きっと、妹様も天国で微笑んでいらっしゃいますわ」
ふいに、どこからともなく風が吹き、墓碑に供えた桜の葉が宙を舞う。葉は、ひらりひらりと風に揺れ、空高く飛んで行く。
それはまるで、初夏の暖かい風が、私達の想いをお陽の元へ届けてくれているようだった。
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