『姫君は算術がお好き?』(13)
13.守りたいもの
お陽の葬儀を終えた夜。私は一人、彼女のいない隠し部屋へと足を運んでいた。
葉桜の見える窓辺にも、三人で勉強した机の前にも、もう彼女はいない。あるのはただ空虚だけ。
――本当に、あなたはもういないのね。
その事実を思い知らされた気がして、私は涙があふれるのを堪え切れなかった。
「あんた、来てたのかい」
ふいに声がして振り向くと、そこに鞠姫様の姿があった。その目に敵意はない。ただ、私に同情している。
「鞠姫様……」
彼女は私を見据えたまま、小さく呟く。
「あんたも、御苦労だったね。陽のこと、気にかけてくれてたんだろ?」
あんたといるときの妹は、本当に楽しそうだった。そう悔しそうに言う。あんな妹は初めて見た、と。
「あんたは、あの子の初めての友達だったんだ。父親でも、母親でも、伯父でも叔母でもない。また姉とも違う、たった一人の友達だった」
鞠姫様の声に、ほんのわずか涙が交じる。
「あんたは、あの子を救ったんだ」
そう力強く言い放った彼女が、突然意識を失ってその場に倒れ込む。
「鞠姫様!」
すぐさま主治医(例の秘密を共有するお陽のかかりつけ医)が呼び出され、彼の指示のもと、鞠姫様は奥の部屋に敷いた布団に横になった。
「軽い貧血ですね。疲労性もあるようですから、しばらく休ませれば直によくなるでしょう。それじゃあ、お大事になさってください」
医者はそう言って帰って行き、部屋には鞠姫様と私の二人だけが残された。
「鞠姫様……」
横たわった彼女を見て、ふと気付く。鞠姫様って、こんなに小さかったかしら……?
初めて会ったときの、この人の遠慮のない物言い。威圧感たっぷりの大きな体。隙を与える暇もなく、私をお陽からはねつけていたっけ。それが今は――。
「……元気出してください。妹君様も、天寿を全うされたと思いますわ。すごく、穏やかなお顔をされていましたもの」
鞠姫様は数回瞬(しばたた)いて、じっと天井を見つめる。何か考えているご様子で、一言も発する気配はない。それは、これまで献身的に尽くしてきた妹を亡くして、戸惑っておられるようにも見えた。
「失礼いたします」
ふいに廊下の方から声がして、さっと障子が開く。振り向いた先にいたのは、眼鏡をかけた丸い顔。その顔に表情はなく、感情も窺えない。
「お初にお目にかかります。わたくしは女中の、鷹と申します。鞠姫様――お加減が優れないと伺いましたが、その後いかがでしょうか」
お鷹はそう言うと、鞠姫様の枕元に座りこんだ。けどそれきり彼女は何も言わず、ただ鞠姫様だけをじっと見つめている。
「お鷹さん……どうしてここに?」
見かねた私がそう訊ねると、視線を鞠姫様に向けたまま、彼女は静かに言った。
「第二の奥方様――なんてあだ名されるほど勘が鋭いと言われている私が、気付いてないとでも思ったの? 私は初めっからずっと気付いてたわ。ここに鞠姫様達姉妹がいるのも、あなたが陽姫様の侍女になったのも、彼女が和算好きだってことも、すべてね」
そこで、ようやくお鷹は私の目を見た。わずかに顔が綻び、無表情(ポーカーフェイス)と言われる彼女の、眼鏡の奥に秘めた熱いものを感じた気がした。
「……私もね、陽姫様や香坂様と同じ、和算が好きだったの。だからかもしれないわ、彼女に親しみを感じたのは。でも私は、決して彼女達の前には姿を現さなかった――どうしてだと思う?」
「えっ……ど、どうして、って」
私が答えに困っていると、彼女は言った。
「邪魔したくなかったのよ、あなた達のことを」
一瞬、どういう意味なのか、よく分からなかった。
「正確に言えば、彼女を傷つけたくなかったの。それに、あのお姫様には、あなたがいれば十分だって思ったから」
「それって……」
仲間に入りたかったんじゃない、と言おうとして、彼女はそれを言わせまいとするように言葉を重ねる。
「いいのよ。影から見守ることこそが、他でもない私の使命だって思ってるから。まあ、実を言うと私も楽しかったのよ。あなたは知らないかもしれないけど――内緒で自分の考えた和算の問題を書いて、こっそり姫様のもとに送ったりとかね」
「ええっ!」
全然知らなかった……そんなことがあったなんて。
「今日こうしてこの場に現れたのは、陽姫様が亡くなって、いてもたってもいられなかったから。それから固く決心したの。これからは、私が鞠姫様をお守りしていくって」
あなたが、陽姫様を守り抜いたように。そう言ったお鷹の顔は、いつもの無表情(ポーカーフェイス)とは違う、心からの笑顔だった。
そしてそれを受けた鞠姫様もまた、穏やかな笑みをたたえていた。
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