『姫君は算術がお好き?』(12)


12.別れ


 お陽の葬儀は、通夜も含めて、限られた人達だけで行われた。東西寺(とうざいじ)の尼住職の玉妙院(ぎょくみょういん)様と、喪主を務める姉の鞠姫様、伯父で養父の城主様、それから香坂さん、女中のお鷹、そして私、松だ。

「皆様、昨晩より通夜そして葬儀への参列、お疲れ様でございました」

 玉妙院様はそう言って一礼し、お寺へ帰っていく。そのあとに城主様が続き、お鷹も自分の持ち場へ戻っていったが、残された私達三人はその場から離れられずにいた。

 ただただ、お陽の遺体が埋められた地面を、じっと見つめていた。


――お陽。本当にあなたは、逝ってしまったの……?


 まだ信じられない。今にもどこからか姿を現しそうな気がするのに、彼女はもうこの世にはいないだなんて。

「お陽……っ」

 頬に、あたたかいものが流れる。泣き崩れそうになるのを、何とか堪えた。

「……行こう」

 肩に優しい手のひらの感触を感じ、そっと後ろを向かされる。彼は何も言わなかったが、言外に「大丈夫だ、私がついている」と告げているような気がした。逞しくて、あったかくて、優しい。そんな彼の姿を、私は今日初めて知った。

 そして、私の中に芽生えたこの気持ちも。

「……気は済んだか」

 彼の声で、私はようやく今、自分が城門のところに来ているのに気付いた。彼の手が、ふっと私の肩から離れる。


――行かないで。


 反射的に、彼の着物の裾を掴んでいた。振り向いた彼が、目を丸くする。

「えっと、その……今日は、ありがとう。疲れたでしょう?」

 途端に彼はいつもの顔に戻って、つまらなそうに言った。

「礼などいらない。彼女には世話になったと、ただそれだけの話だ」

「でも……お陽は、あなたと和算の話ができて楽しそうだったわ。悔しいけれど、私にはそんな話はできなかったから」

「私はただ、私にできることをしただけだ。礼を言われるほどのことじゃない」

 話は済んだか、と城を出て行こうとする彼に、慌てて言葉を重ねる。

「おっ、お陽は、とっても穏やかな死に顔をしていたわ! 全部あなたのお陰なんでしょう? 彼女は最期に言っていたわ――あなたに、とても素敵な場所に連れて行っていただいたって」

 彼は押し黙り、やがて口を開くとこう言った。

「明日も早い。私はこれで失礼しよう――あんたも、今日は疲れたろう。ゆっくり休めばいい」

 そう言って今度こそ去っていこうとする。


――だめ。まだ私、何も伝えてない。


 この気持ちを、どうしても伝えなければ。そう思った私は、彼を呼びとめていた。

「何だ?」

 彼が振り向き、私は帯の間から一枚の櫛を取り出す。髪梳きのものではなく、髪留めのもので、全体がべっ甲でできた高価なものだ。

「それは……?」

 彼は眉をひそめたが、すぐにこれが何か気付いた様子だった。

「陽姫の……櫛か」

 それが正解だというように、私は頷いて見せる。

「そうよ。死ぬ間際、彼女が頭に挿していた櫛よ」

 ついでに言えば、これは元々私が彼女に贈ったものだった。

「これはね、父が亡くなる時、私の誕生日祝いに買っておいてくれた大切な品なの」

 その言葉に、彼が如何わしそうに顔をしかめる。

「……そんなに大切なものを、あの姫様にあげてしまったのか?」

 私は哀しくなった。彼には、私のこの気持ちが分からないのだと。

「ひどいわ、そんな言い方……。私は、これが自分の大切なものだからこそ、彼女にあげたのよ」

「大切なものだから、あげるだと? 言っている意味が分からんが」

 その言葉に、強い侮蔑が感じられたのは私の思い込みだろうか。

「これは、私の一番大切なもの……。そして、お陽は私の一番大切な人よ。だからこそ、私は彼女にこれを持っていてほしかったの」

「あんたは相変わらずおかしなやつだ。私には理解できん」

 顔をしかめたまま首を振り、踵を返す彼の手のひらに、握りしめた櫛をぐいっと押しつける。

「今は分からなくてもそれでいいわ。でも、これはあなたが持っていて」

「何故、私なんだ? 何故、女物の櫛を、男の私が持っていなくてはならない? あんたが持っていればいいじゃないか」

 私は彼の目をじっと見据え、静かに告げた。

「お陽は私の一番大切な人で、あなたはお陽と私の間にあった秘密を知る唯一の人だから。そして私にとって――またお陽にとっても、あなたが掛け替えのない人であるのに変わりはない。だから、そんなあなたに……私とお陽の一番大切なものを捧げたいの」

 挿し櫛をつかんだまま、彼が再び顔をしかめる。一呼吸置いて、私は彼に告げた。

「ねえ、香坂さん。知ってたかしら――お陽はね、あなたのことが好きだったのよ」

 初恋だったの。そして……最初で最後の恋だった。そう続けると、彼は頬を赤らめてわずかに視線を逸らした。そこでようやく気付く。彼も……お陽のことが好きだったのだと。

「だから、そんなお陽との思い出を、どうか忘れないでいてほしいの」

 彼が、小さく頷く。そして手の中の挿し櫛をきつく握りしめて、静かに城を出て行った。

「――さよなら、香坂さん」

 私も、あなたが大好きだったわ。その言葉は、とうとう最後まで告げることはできなかった。

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