『姫君は算術がお好き?』(11)
11.告げる唇
お陽が倒れたと聞いて、私は慌てて駆け付けた。お陽の一大事だもの、仕事なんて二の次だ。
「ご友人のお松様ですね。どうぞ、お陽様の病室はこちらです」
診療所の入口で看護婦に案内されて、奥の部屋へと通される。襖を開けると、布団の上に横たわるお陽が、香坂さんに見守られて静かに眠っていた。
「お陽っ!」
感極まって、慌てて駆け寄る。だって、お陽は本当に穏やかに眠っていて、このまま永遠の眠りについてしまうような気がしたから。
「お陽、私よ……松よ。お願い、目を開けて。いつもみたいに笑ってみせてよ。このままお別れなんて、私は絶対嫌だからね!」
お陽は、何も言わない。ただただ、静かに眠っているだけだ。
「……そう興奮するでない。薬の副作用で、今は眠っているだけだ。直に目を覚ます」
香坂さんの言葉に、ハッと我に返る。気持ちが落ち着いてくると、私はゆっくりと視線を彼にずらした。
「どうして……こんなことに」
「外気に触れれば、彼女の体にも良いと思ったんだ。けれど、久方ぶりの町の様子に、興奮したのだろう。それがいけなかった」
「あなたがお陽を連れ出したのね?」
その言葉には、棘があった。彼を責めるつもりではないはずなのに、実際に私の口から出たそれは明らかに彼を責めていた。
「……すまない」
静まり返った部屋に、その声だけが虚しく響く。それきり彼はそっぽを向いて、口をきつく閉ざした。
香坂さんのせいでないことくらい、分かっている。
けれど、彼が余計なことさえしなければ――お陽を外へ連れ出したりしなければ、こんなことにはならなかったと思うと、悔しかった。いや、違う。今日、私が別件の仕事を優先させずに彼女の元に行っていれば……こんなことは起こらなかった。そう、全ては私のせいなのだ。
けれど今更謝ることもできず、彼とのあいだが気まずくなったまま、長い沈黙は続いた。
「こ……こは……?」
微かな声に気付いて顔を上げる。昏睡(こんすい)から醒(さ)めたお陽が、目をぱちくりさせている。
「ああ、よかった……! 目が覚めたのね、お陽」
彼女はうつろな目で部屋を見回すと、香坂さんの方を見て、それから私の方を見て言った。
「香坂さんにね、とても素敵な場所に連れて行っていただいたの。でも彼を責めないで。私が無理にお願いしたことだから。本当よ」
何だか、全部見透かされているような気がした。慌てて、私は首を振る。
「分かってる……責めたりしないわ。彼は、お陽のためにそうしてくれたのね?」
お陽がにっこりと頷く。彼も、分かってくれただろうか。私が責めるような言い方をしたのは本心ではないと。
「お姉様や伯父様には怒られるかもしれないけれど、私、決めたの。自分の道は自分で決めるって。それにね……」
今、諦めたら絶対後悔するって、そう思ったの。そういう彼女の主張には、強い意志があった。
「だから私、もう悔いることは何もないわ。この世での良い思い出ができてよかった。それと……最後の最後に、こうしてあなたの顔を見られてよかった」
「ばか言わないで! 最後なんて……そんな縁起でもないこと、言わないでよ!」
考えるより先に、私はそう叫んでいた。火照った頬に涙が伝う。
「ふふ。さっき、香坂さんにも同じことを言われたわ」
お陽はそう微笑んで、そのか細い指で私の涙を拭った。
「お、陽……」
何故か何も言えなくて、私は呆然と彼女を見つめる。
「でもね、私、この年まで生きられて、あなた達と出会えて、本当に幸せよ。だからもういいの」
「もういいなんて……! まだ死ぬには若すぎるわ。あなたは、もっともっと生きていいはずよ」
ようやく放ったその言葉は、やや涙交じりで、語尾もかすれていた。
けれどお陽は、静かに首を振る。
「私は本当なら八歳のあのとき死ぬはずだった――それがどうしてか生き延びちゃったのよ」
八歳――お陽が、病を患った年。城に幽閉された年。
「それも、伯父様が厳重な隔離態勢を敷いてくださって、お姉様がずっと面倒を見てくだすったおかげだわ。だから私はこの年まで生きられた」
そして……と彼女は私を、そして香坂さんを見る。
「私は、あなた達に出会って、大切なものをいただいたの」
「大切な……もの?」
お陽は頷く。
「ええ。『友達』よ。あなた達は私にとって初めての、そして掛け替えのない『友達』だわ」
「お陽……」
私もよ、と言おうとして、彼女はゆっくりと目を閉じた。
「お陽っ!」
思わず、彼女の手を取り、きつく握りしめる。
ややあって再びお陽が目を開けると、彼女の手が私の手を離れ、宙をさ迷った。その手がふわりふわりと宙を踊り、香坂さんのいる方へと伸ばされる。
私はその手を再び取ると、隣にいた彼の手を引っ掴んで、その手に握らせた。
「お陽、彼ならここにいるわよ。あなたのそばで、ちゃんとあなたを見守っているわ」
顔を傾けたお陽の小さな口が、僅かに開いて言葉を紡ぐ。
「こ……うさか、さん」
「何だ?」
手を繋いだまま、彼はぶっきらぼうに返す。それでも、しっかりとお陽を見据えるその目は真剣そのもので、とてもあたたかかった。
お陽もその目を見返し、束の間、二人だけの空間が彼らを包む。その中で、彼女が小さく何かを告げているような気がした。私にはそれが、彼女の愛の告白のように見えた。
そしてお陽は私の方を向き、にっこりと微笑む。
――ありがとう。
何故か、私には彼女がそう言っているように思えた。そして、満面の笑みをたたえたまま、お陽は静かに息を引き取っていった。
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