『姫君は算術がお好き?』(10)


10.秘密の逢瀬・後編【陽姫視点】


 辿り着いた先は、町外れの、誰一人としていない静かな丘だった。一面に咲く白い花には、見覚えがある。


「綺麗……! この花、鷺草(さぎそう)ね」


 丈は七寸(一寸が約三センチなので約二十一センチ)くらいから一尺七寸(一尺は約三十センチ、つまり約五十センチ)くらい。白鷺(しらさぎ)が羽を広げたような美しい花で、夜になると良い香りがするというあの花だ。

 そして私がまだ叔母様達の元にいた頃、大好きだった花――あいにく、まだ見頃ではないようだが。


 ふと、お敬(けい)おばさま――叔母の義妹が聞かせてくれた昔話を思い出す。

「ねえ、知っていて? 鷺草にはね、こんな逸話(いつわ)があるのよ」

 彼が振り向いて、私はニコリと微笑みかけながら話し始めた。

「時は戦国時代。世田谷城に、あるお姫様がいたらしいの。けれど、お殿様の愛を受けすぎたお姫様は、他の女性たちからはあまりよく思われていなかったのね。ありもしない噂を立てられて、その噂はお殿様の耳にも入り……ある時ついに、城から追放されてしまったの。居場所を失ったお姫様は自害(自殺)して、遺書をサギという鳥に託して飛ばしたのよ」

 彼は黙って私の話を聞いている。けれど、繋いだ手はそのままだった。

「飛ばされた鳥は鷹狩の鷹に襲われて――その落ちた跡に、この花が咲いたと言われているそうよ。それって、まるで私と香坂さんみたいじゃない?」

 私は小首をかしげて、彼を見つめる。

 病気療養のためと叔母達の元を追われ、城に幽閉されていた私が、彼に助けを求めてこの花の丘までやってきた。まるで物語の中のお姫様のようだと、自分でも思う。

「サギが、タカに襲われたか……」

 彼は何か思い出したように、しばし押し黙る。やがて口を開くと、彼は言った。

「確かに、私達のようだ。ついでに言うと、襲った鷹はお鷹(たか)だろう。あの女中、私をまとわりつく悪い虫か何かのように思っているらしい。襲われたとまではいかないが、あの隠し部屋へ行こうとして突き返されたことがある」

「まあ」

 そんな女中がいるとは知らなかったが、彼の話が面白いので思わず笑ってしまった。

「でも、鷺草って最初の一、二年は容易でも、長く育てるのは難しいんですって。それなのにこの見事な花畑! 生育者の苦労が窺(うかが)えるわ」

 本当にそう思う。花こそ咲いていないけれど、これだけ見事な鷺草畑は、叔母様のところでも見たことがない。

「どうかした?」

 心なしか、彼の口数が少なくなった気がして私は声をかけた。まあ、元来(がんらい)無口ではあったけれど……。

「いや、何でも無い」

「そう? ならいいのだけど」

 そうして、私達は手を繋いだまま美しい景色を眺める。何も話さないでいると、急に物悲しくなって私は呟いた。

「……今日は連れてきてくれてありがとう。この世での良い思い出ができたわ」

 この世での。そう、私はもうすぐこの世からいなくなる。何故か、そんな気がした。

「縁起でもないこと言うでない」

「ごめんなさい。でも、本当に私、もうダメな気がするの」

 続く沈黙で、赤らんだ顔を悟られないよう、私は俯く。

「だから……ね、私、最後に……あなたに……、どうしても……伝えたくて……」

 声が震える。でも、この気持ちだけは、どうしても伝えたかった。私が、彼に会って、彼と過ごして、初めて感じた気持ち。他の誰とも違う、彼にだけ感じる大切な気持ち。

 きつく目をつぶり、ゆっくりと見開く。

「私……は……、あなたが……あなたのことが……!」

 その瞬間、意識が飛び、私はパタリと倒れ込んだ。辛うじて覚えているのは、倒れたところが、硬い地面ではなく誰かの腕の中だったこと。そしてそれが、とても温かかったことだった。


※補足 鷺草の開花時期は7~8月で、作中ではまだつぼみの状態になっています。

【参考文献】

また、鷺草伝説の話は、以下のサイトを参考にしました。

*Nao2百花物語「花の伝説 常磐姫と白鷺」 (サイト閉鎖)

*目黒区ホームページ「鷺草伝説」 (公開終了)

*季節の花300

http://www.hana300.com/

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