『姫君は算術がお好き?』(9)
9.秘密の逢瀬・前編【陽姫視点】
私には、和算だけが友達だった。
物心ついたときには父も母も亡くなっていて、私はお姉様と、城主の末妹(ばつまい)であるお直(なお)叔母様、それから叔母様の亡き旦那様の弟夫婦と共に、自然豊かな、のどかな村に暮らしていた。
しばらくしておじさま(叔母の義弟)が亡くなったが、それでも何とか乗り越えて、それなりに幸せに過ごしてきたつもりだった。
それが崩れ去ったのは、私が八歳のとき。
私は不治の病と呼ばれる難病にかかったらしく、療養のためとこの西ノ森城に連れて来られた。
そのときに、これで遊んでみてはどうかと城主である伯父様が和算の書かれた紙束を持ってきてくれて、私は和算と出会った。最初は何が書いてあるのかさっぱり分からなかったが、問題と睨みあううちに、解くことの楽しさと和算の面白さを知った。以来、私は和算の問題を解いたり、また時には自ら問題を考えたりするのが日課となっていた。
そんな空虚ともとれる日々を変えたのが、他でもないお松だ。
お松は、いつも私に楽しい話をしてくれた。彼女が好きだという地理や歴史のこと、それから彼女の家族のこと、そしてその日城で起こったこと。私がこの城に来て以来、和算以外のことでここまで楽しいと思えたのは初めてかもしれない。そして彼女は、私のかけがえのない親友となった。
彼女が私にくれたものはたくさんある。生きることの喜びも、気持ちがすれ違う寂しさも、全部彼女が教えてくれた。そして、中でも――。
「香坂、さん……」
お松の紹介で和算友達となった、若きお侍さん。真面目でかっこいいけれど、たまに面白いことをおっしゃる楽しいお方。私は彼と会うたびに、今までに感じたことのない何とも言えない感情を覚える。それでいて、また会いたいと思ってしまう。彼は本当に不思議な人だった。
いつものように窓の外を眺めながら、ふとそんなことを考える。そのとき、背後でガタンと音がして、思わず振り返った。
「香坂さん……?」
扉の向こうから現れたのは、香坂秀武その人。珍しいことに彼一人だけで、いつもいるはずのお松がいない。
「今日は一人なの? お松は……いないのね?」
「ああ。一応声をかけたんだが、今日は忙しいからと断られてしまってな」
そっけないところも、相変わらずだ。でも私は嬉しかった。たとえ一人でも、ここに来てくれたことに。
「そう……。まあいいわ、私にはあなたがいれば十分だから――さ、勉強始めましょう?」
香坂さんの手を取って、机に向かう。思えば、彼と初めて会った時もそうだった。でもあのときは、こんな気持ちになることもなくて……。そう考えたら、彼の顔がまともに見られなくて、私は立ち上がり、窓の方へ向かった。
「はぁ……」
窓から見えるあの日と変わらぬ空に、思わず溜息がもれる。
「どうした?」
背後で彼の声が聞こえる。私は背を向けたまま、誰に言うでもなく呟いた。
「私、昔からそうだったわ。いつも心配ばかり掛けていた――特にお姉様には。今でも時々想うことがあるのよ。そのせいで、姉は自分の時間すら持てなかったんじゃないかって」
香坂さんは、何も言わない。それでも良かった――ううん、本当にそれで良かった?本当は気付いてほしかったんじゃないかしら、誰かに。そしてそれは彼だったんじゃないの?
「人生は、数学の問題みたいに簡単に解かせてはくれないわね。人生も数学も、答えは一つだと思っていた。必ず答えは見つかるんだって思ってた。けど、それは違うのね……」
目に熱いものが込み上げてくるような気がして、ふと目を伏せる。そのとき、後ろで声がした。
「……数学も、いつも答えが一つだとは限らない。答えが二つあるときもある。だが、どんな問題にも答えは必ずあるんだ。どんなに難解で、すぐには解けないような問題でもな」
彼の方を振り向く。見つめると、彼も真っ直ぐ私の方を見て、こう言った。
「人生というのも、そういうものじゃないのか。答えは一つじゃない。でもどんな難しい問題だって、いつか解ける日は来る」
その言葉は、私の胸に響いた。私も何か言おうとして、こんな言葉が口をつく。
「私、もう一度外に出てみたい……」
何でそんな言葉が出たのか自分でも分からないけれど、もしかしたら、私が一番望んでいたのはそれなのかもしれない。
香坂さんがゆっくりと立ちあがり、私のそばに来て言った。
「……連れて行ってやろうか?」
いいの? と聞こうとして、慌てて首を振る。そんなこと、できるわけがない。
「いえ、そんな……そんなこと、できないわ。お姉様が何て言うか……」
そうよ。もし私が外なんか行ったら、絶対お姉様が心配する。ただでさえ面倒をかけているのに、そんなことできるはずがない。
けれど彼はこう言った。
「あんたの人生は、あんたの人生だ。あんたの姉さんの人生じゃない。進む道は誰かが決めるのではない、自分で切り開いていくものだ」
その目は、真剣そのものだった。鋭い視線が、無遠慮に私の心を突き刺す。
――彼の言うとおりだわ。
私は小さく頷き、着替えてくると言って部屋に戻った。
前にお松がくれた、藤色の町娘仕立ての着物。それから彼女が教えてくれた町娘の髪型に結い、彼女が譲ってくれた挿し櫛(髪飾りの櫛)を挿した。
「お待たせ」
「……じゃあ行くか」
暗い階段を降りて、長く暮らしてきた城を出る。城下に出ても、誰一人、私が城主の姪であることに気付く者はいなかった。
「本当に誰も気付いてないわ……」
「そりゃそうだろう。みんな、あんたの従妹(いとこ)――藤姫にかかりっきりだからな」
そう、と答えて私は目を逸らす。私に従妹がいるなんて、少しも知らなかった。それで、私って外の世界のことは本当に何も知らないんだと気付く。
落胆した私を励ますように、彼がそっと私の手を包んだ。驚いて顔を上げると、彼は照れたように顔をそらす。その姿が可愛らしくて、私はそっと微笑んだ。
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