『姫君は算術がお好き?』(8)


8.葉桜茂る頃


「お陽、何だか最近明るくなったわね」

 ある日の午後。熱心に和算の問題を解くお陽の姿を見つめながら、私は呟いた。

「そう?」

 振り向く彼女に、私は頷く。

「ええ。私と初めて会ったときより、楽しそうな顔をしていることが多くなった気がするわ」

「それは、お松とこうして話すのが楽しいからだわ」

 そう言って微笑み、しばらく空いて、ふと思い出したように付け加える。

「それと――やっぱり、香坂さんのお陰かしら。あの方ったらね、本当に面白いの。真面目でお堅そうな印象はあるけれど、人間、それだけじゃ分からないものね」

「まあ、香坂さんが?」

 面白いですって、あの無愛想で皮肉屋な人が? 想像したら何となくおかしくて、私は思わず笑ってしまった。

「へえ、そうなんだ。あの人がねえ……。彼も、無駄に顔が整ってるわけじゃないってことだ」

「もう、お松ったら!」

 私の言い方に別段不快になった様子もなく、それが私らしい言い方だとでも言うようにお陽は微笑む。

「人生、無駄なことなんて一つもないのよ。一見無駄に見えることだって、次の成功に繋がる通過点にはちゃんとなっているんだから」

 そのとき、お陽のものでも私のものでもない、不機嫌そうな咳払いが聞こえたかと思うと、彼女があっと声をあげた。

「あら、香坂さん!」

 ぎょっとして振り向く。そこには、いつのまに来たのか、不愉快そうに眉をひそめて見下ろしている噂の当人の姿があった。

「嘘、いつのまに現れたのよ!」

 驚きを隠さず顔をしかめる私と、未確認生物が現れたんじゃないんだからと諫(いさ)めるお陽を無視して、彼は “にべもなく” 言う。

「……何の話をしていたんだ?」

「ふふっ、内緒よ。だってあなたの噂話をしていたんだもの。ね、お松?」

 人差し指を口に当てて、楽しそうにお陽が答える。

「え、ええ……」

 頷きながら、そんなお陽と、つまらなそうに視線を逸らす香坂さんを見ていて私も嬉しくなった。この人、案外可愛いところあるのかもしれない。

 ふいに、窓の外に目をやったお陽が声を上げる。

「あっ! 気付かなかった……見て、庭の桜がもう若葉を色づき始めているわ」

 嬉々として窓辺に駆け寄る彼女のあとを私と香坂さんが続いていくと、窓から見える城の桜の木が、少しずつ花を散らし、見事な葉桜へと移り変わっていた。青々と美しい葉に、僅かに残る薄紅色の花が対比をなす。

 そうか、あれからもう一年が経ったのか――。

「私、この葉桜になった桜の木が好きなの。満開の花も、もちろん綺麗だけれど。それよりも、もっと……」

 桜に見とれるお陽が、そう呟く。その横顔は、気のせいか、ほんの少し赤らんで見えた。

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