『姫君は算術がお好き?』(5)


5.彼女の好きなもの


「あのね、お松。ちょっとこっちに来て。とっても面白いものがあるのよ」

 次の日、隠し部屋を訪れた私に、お陽は言った。

 もったいぶったような言い方をして、一体何を見せてくれるのだろうと期待しながら、私は彼女に手を引かれるままについて行く。

 お陽は、彼女の部屋の隅に置かれた勉強机の引き出しを開けると、文字のびっしり書かれた紙束を取り出した。

「これが、お陽が言ってた面白いもの?」

 彼女が頷く。でも、書かれているのは数字と大小さまざまな円、それと隅の方に殴り書きのような、文字とも記号ともつかない筆の跡があるだけだ。私には、それがちっとも面白いものには見えなかった。

「これはね、『和算』(わさん)っていうの。単に算とか、算術とか、算法、算学ともいうわ。いわゆる江戸時代、日本独自の数学ね」

「和算……」

 お陽はもう一度頷く。

「そうよ。私が出会ったものの中で、和算ほど面白いものはないわ。そう……私にはずっと、算術だけが友達だったの」

 そしてお松は、私に初めてできた “人間の” 友達よ、と笑う。だから私の好きなものを、『友達』のあなたと共有したいの。彼女はそう言った。

「でも、私には和算なんて分からないわ。申し訳ないけど、その紙に書いてある内容もさっぱり分からないのよ」

 お陽は、心配ないというように首を振る。

「私はね、ただ……あなたと楽しみを共有したいだけなの。私が大切に想うものを、あなたにも理解してほしい、とまではいかないけれど、少しだけ感じてもらえたらって思うのよ」

「それなら……」

 できるかもしれない。途端に、彼女が頬を緩める。

「嬉しいわ。解きたい問題が山ほどあるの。あ、そうだ。お松の好きなものも教えて。私も、お松の好きなものを共有したいから」

「私が好きなのは、地形とか地域の名産とか、あと歴史ね。私達人類がここに来るまでにどんな経路を歩んできたか、それを知るのは面白いわ。そしてその過程で出来た産物を眺めるのは本当に素晴らしいものよ」

 もっと聞かせて、とお陽は言う。それから私の好きな和算のことも、お松にもっと聞かせてあげたいわ、と。

「私も、もっと聞きたいわ。お陽が好きだっていう和算のこと、それからお陽のことも。そんなすぐには理解できないかもしれないけど、理解できたらって思ってる。それぐらい、あなたのことが知りたい。あなたと何かを分かち合いたいの」

 私はお陽の目を、しっかりと見つめて言った。お陽も私の目を見つめ返す。そのあいだを何かが、通り抜けた気がした。

 手にした紙束を掲げて、お陽が言う。

「それじゃあ、始めましょう。簡単なものから教えてあげるわ。ほら、こっちに座って」

 机の前に並んで、私達は腰を下ろす。お陽と私の算術授業が始まった。先生はもちろん、お陽だ。お陽の教え方は分かりやすく、私はすぐに興味を持った――問題がスイスイ解けたかどうかは別として。


 次の日も、そのまた次の日も、私達は毎日和算を楽しんだ。

 時には私が好きな地理や歴史のことを話したり、隠し部屋から出られないお陽に、城の中で起こったことを聞かせたりした。

 そうして数週間が経ち、お陽のかかりつけのお医者様(彼もまた秘密を共有する一人らしい)も、彼女の調子は大分良くなってきているようだと告げた。

「私、もっと生きていたい。お松と一緒に、生きていたいわ」

 お陽はそう言って、私に寂しく微笑んだ。

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