『姫君は算術がお好き?』(6)
6.噂の美青年
それから半年あまりが過ぎた頃、私は一人の若き侍の噂を聞いた。
名は香坂秀武(こうさか ひでたけ)。年はまだ二十代半ばというが、腕利きの武士・井助(いすけ)の元で修業を積んだ優秀な弟子の一人らしい。身も凍るような凛々しい目元に、すらりとした長身と、高い頬骨を持つ絶世の美男子だという。中でも興味深いのは、彼が『無類の和算好き』だということだ。
そんな彼は城主様とも交友があるらしく、あるとき城にやってきたところを、私はつかまえて用具倉庫まで連れてきた。
「何だ、あんたは。用があるなら早く言え。私は、あんたと違って暇じゃないのでな」
案の定、見知らぬ女に見覚えのない場所へと無理矢理連れて来られた彼は、あからさまに嫌そうな顔をする。突然連れてきた私も私だが、噂の美青年がこんなに無愛想な皮肉屋だとは知らなかった。何よ、可愛くない人!
「頼みがあるのよ」
自然と、私も “つっけんどんな” 言い方になる。
「頼みだと?」
「そうよ。あなた、『和算』がお得意なんでしょう。噂に聞いたわ」
「まあ、嘘ではないが」
「そこで、あなたに頼みたいことがあるの。“隠し部屋”(うえ)にいる算法好きのお姫様のために、彼女の話し相手になってほしいのよ」
「……別に構わんが」
「じゃあ決まりね。ついてきてちょうだい、案内するわ」
荷物をどかして扉を開け、例の狭い階段を進む。後ろから不満をもらす声が聞こえたような気がするが、私は聞こえないふりをして階段を上がった。
隠し部屋へ通じる扉を開けて、私達は廊下に出る。お陽が一人、窓から見える広大な空を眺めていた。彼女が私の気配に気付き、こちらを振り向く。
「あら、お松――と、そちらはどなた? 初めて見る方だわ」
お陽の目が興味深そうに輝く。
「紹介するわね。こちらは、香坂秀武さんとおっしゃる方よ。何でも、優秀なお侍さんらしいわ。しかもね、お陽、彼は何と、『和算』が得意だそうなの! お陽の好きな『和算』を語れる人が一人増えたわよ。このことは彼も承知してくれているわ、ね?」
そう言って私は彼に目配せしたが、彼は、ぶっきらぼうに一つ頷くだけだった。
それでもお陽は嬉しそうに、私を、そして香坂さんを見る。
「まあ、素敵! 私も『和算』が大好きなの。あなたが『和算』を好きで、私も嬉しいわ。私は城主の姪の陽。こっちは侍女のお松よ」
じろりと、彼が私を睨む。すかさず、私も睨み返した。
するとお陽は、私達の仲が険悪になったのを察したのか、急に香坂さんの手を取って部屋へと誘(いざな)った。
「ねえ、ちょっと来て。あなたに良さそうな、とびっきりの問題があるの!」
「おいっ」
戸惑う香坂さんのことなどお構いなしに、彼女は彼の手を引く。私が後に続くと、二人は机の前に並んで腰を下ろした。机の上に、難しそうな和算の問題が書かれた紙が乗っている。
「これなんだけど……私、どうしても解けなくって。あなた、解ける?」
彼は和算の書かれた紙をしばらく眺めていたが、やがて一つ頷き、お陽に言った。
「確かに少し難しいが、解けないことはない。ここを、こうして……このように考えれば、ちゃんと解けるはずだ」
「まあ、そうだったのね。ありがとう。あなたに頼んでよかったわ」
「礼を言われるようなことじゃない」
お陽の言葉に、香坂さんが照れくさそうに視線をそらす。
専門的な二人の会話は、私にはまだまだ分かりそうになかったが、お陽は大好きな和算の話ができて嬉しそうだった。私といるときより嬉しそうなその姿に、私は少し嫉妬を覚える。
そんな私の心境を知ってか知らずか、彼は次の日もそのまた次の日もお陽の相手をしてくれた。その真面目な姿には、ちょっとだけ、認めてあげてもいいかなと思った。
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