『笑わぬ姫君』(17) 【終】

 その翌日。

 両親や大勢の女中たちに囲まれながら、姫様は花ノ介様と香坂さんを引き連れて、馴れ親しんだこの城をあとにしていました。

 以前、私がお里の店で買ったあの着物――深い緑色の生地に、藤の花の刺繍がされているあの着物(それの町娘仕様のもの)を身に纏った彼女は、この上ないほどの笑みを浮かべています。

「藤姫や、もう行くのかい」

 殿様も寂しそうに言います。

 奥方様はいつものポーカーフェイスに戻ってはいましたが、それでもどこか寂しそうでした。

「ごめんなさい、父様、母様。私、行かなくちゃならないの。寂しくなるけど、私、行ってきます!大丈夫。兄様もいるし、兄様のお友達だっているし、私は平気よ。それに……次に会ったときには、きっと強くなって帰ってくるから」

 姫様たちが向かうのは、紛れもなく海之進様のもとです。外国に送られ帰って来れずにいる彼の元へ会いに行くのだと、昨晩、彼女は笑顔でそう言いました。

 何があるかは分かりません。けどそれが姫様の選んだ道ですから、私どもは何も言いませんでした。ただ、彼女たちが無事にたどり着くよう祈るだけです。

「ありがとう」

 姫様は最後に、私に向かってそう言いました。そして、またとない笑顔を向けてくださいました。

「さようなら、お元気で」

 夕日に照らされ去りゆく三人の後ろ姿を、私はいつまでも見守っていました。

 ひょんなことから巻き込まれてしまった私達だけれど、波乱あった分、最後に姫様が見せたあの笑顔は、私達にとって最大の褒美。

 姫様は初めて会ったあの日と比べ、随分とお強く、そしてより美しくなったように思います。きっと、次にこの城に帰ってきた日には、もっともっと美しく輝いていることでしょう。


 そして――。


 一週間後、私とお尚は元の暮らしへと戻っていました。

 といっても、もちろん、姫様のことを忘れたわけではありません。

 それと報酬のことですが、私もお尚も受け取りませんでした。奥方様はそれなりに用意すると言ってくださったのですが、私達には “姫様が笑顔を取り戻したこと” が何よりの報酬であり、こうして元の暮らしへと戻り、家族とともに暮らすということが何よりの幸せだと気付いたのです。

 ええ……姫様とそのご家族である殿様、奥方様、花ノ介様を見ていて、つくづくそう感じました。

「お清ちゃーん!」

「はーいっ」

 私は元気に返事をし、声のした方に駆けていく。

「いらっしゃい、お尚さん、お里ちゃん」

 あれからお尚とは、お里も交えてよく遊ぶようになりました。

「あなたのところにも来た?奥方様からの文」

 お尚が一枚の手紙をひらひらさせながら言い、私も同じように手紙をかざす。

「もちろんよ。あの人、娘が出ていってから、ほんと私達を娘代わりにしてるわね。ついこないだも来たんじゃなかった?」

 お尚は大きく首を振って頷く。

「ええ、ええ。でもいいじゃない。いっそのこと、私達がほんとの娘になっちゃったりして!」

 こうして冗談をかますのも、実に彼女らしい。

「ふふ、それはないわよ」

 私が笑みを返すと、事情を知らないお里が尋ねた。

「ねえ、何の話?」

 私達は、声を揃えて言った。

「ふふ、話せば長くなるんだけどね…」

「まあ!」

 話を聞いた彼女は驚いていたようだったけれど、それでもどこか嬉しそうだった。

 そして私達は笑い合い、お里と別れて、二人は城へと足を進めた。


 城に着いた私達は、早速女中たちに取り囲まれた。彼女達に軽い挨拶を交わして、奥方様のもとへ向かう。

「お清もお尚も、元気そうね」

 彼女は相変わらずのポーカーフェイスでありましたが、随分と物腰柔らかくなった気がする。

 隣で笑う殿様も、まだ若干寂しそうにはしておられるものの、以前と比べてだいぶお変わりになりました。

 姫様や若い女中に厳しく当たっていたお節様やお鈴様も、相変わらず厳しい方ではありますが、今はちゃんと女中一人一人を見て、敢えての厳しさを保っておられるように思います。私は、今の彼女たちの方がずっと好きです。

 お綾とおたみも、お和も、お松もお鷹も、初めて会ったときより遥かに輝いて見えました。

 お紀は少し大胆になったようで、「西ノ森城が明るくなったのはお清さんとお尚さんのおかげです」なんて言っていたけど。

 お尚も「特にお清がたくさん働いてくれたおかげね。私はちょっとした邪念にとらわれてぼーっとしてたわ」なんて言っていたし。

 そして盛り上がる女中たちの横を通り抜け、私は奥にある守ノ局様の部屋へ向かっていた。


「失礼します…」

「いらっしゃい、よく来てくれましたね」

 あれ以来警戒を解いた彼女は、私を娘のように可愛がってくれていた。奥方様同様、藤姫様の代わりとして、彼女のいなくなった隙間を埋めている気もする。

 向かいに腰をかけると、彼女は言った。

「あなたには感謝しています。おかげでこの城は幾分明るくなりました」

「でも、それは私だけの力ではありませんわ。お尚だって…」

 私が謙遜すると、彼女はそれを否定も肯定もせずに言った。

「ええ、確かにあなたと彼女が協力したからこそできた部分もあるでしょう。けれど、藤姫様と花ノ介様の仲を取り持ったのは、あなたですよ。まあそれにも、あなたの功労を支えてくれた影なる人物がいたことと思いますが」

 影なる人物とは、あの武士――香坂さんのことだろうと思いました。

「これをご覧になって」

 ふいに、彼女が手紙を差し出す。それは、旅に出た姫様からの手紙だった。


『お清へ

 お元気ですか。私が城を出て早一週間、彼には会えていませんが、兄と香坂さんと元気でやっています。

 そうそう、行く道中にね、ちょっとした世直しの旅を始めたのよ。これはまた今度話すわね。

 それでは……あなたの元気を、遠くから祈っています。

                       あなたの親友  藤姫 』


 私は、その内容に思わず涙した。

「兎角、あなたがたのおかげでこの城が平和に満たされたのは事実です。長年生きてきた私ですら、この先何があるか分かりませんが、これほどのことを成し遂げたあなたなら、大丈夫だと信じています。ご健闘をお祈りしていますよ」

 彼女はそう言って、私に優しく微笑みかけた。

 そうね……きっと大丈夫。姫様も私も、お尚も。初めてここに来たあの日より、ずっとずっと強くなってる。

 これからもきっと強くなれるわ。

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