『笑わぬ姫君』(15)

 昔のように笑えなくなったのは、いつからだったろうか。

 海之進様が来なくなってから?兄様が出て行ってから?それとも兄様がいじわるをするようになってからだっけ?

 明確な理由なんて覚えてない。

 ただ一つ、私はあの方に特別な感情を覚え、それからやがてまもなく、あの方は兄様とともに城を追い出されたのだということ。

 それも何年前のことだったのか、はっきりとは記憶していない。

 兄様の姿を見たのは、あの日別れてから、つい最近城下で鉢合わせたきりだ。

 最初はお清に誘われて嫌々行っていた城下なのに、いつしかお里やお照…城下の者たちと会うのが楽しみになっていた。

 それなのに、あんなところで会うなんて。それにこの手紙――私は机の上に置いた、くしゃくしゃの手紙を見る。

 あの男は誰?海之進様は、どうして今更手紙なんて寄こすの?手紙なんてもらったら、今度は会って話したいという欲が出てきてしまう。どうして彼はそれに気付かないの?

 兄様だってそうだ。どうして今更、よりによって今この時期に私の前に現れるのだろう?

 お清のおかげで、ようやく以前の私――『笑わぬ姫君』と呼ばれていた私から別れを告げられると思ったのに。これじゃあ……昔の私に逆戻りよ。


 いつものように、私は部屋を出て窓の方へ向かう。

 あの日からずっと、寂しくなったら一人夜空に浮かぶ月を眺めるのが私の癖になっていた。

 月に帰りたい…なんて、かぐや姫のようなことは思っていない。ただ、こうしていると無心になれた。

 いやなことも、つらいことも、何もないくらいに忘れられた。忘れたくても忘れられない、大切な思い出も。

「あ…」

 けれど今夜は、いつもの特等席に先客がいた。あの後ろ姿には見覚えがある――お清だ。

「なんで、あなたがここに…」

 彼女は振り向くと、私に優しく微笑みかける。

「…こんばんは。いい星空ですね」

 けれどお清は、それきり何も言わなかった。ただただ、二人肩を並べて、星がまたたく夜空を見上げる。

 ふいに気まずくなって、私は目をそらしたまま声をかけた。

「…あなたのせいでしょ。最近、お綾やおたみが私の部屋に来るようになったわ。毎日来る女中もいる。今までは、陰で私のこと『わがまま姫』とかなんとか言っていたくせに」

「あら、でも嫌な気はしていないでしょう?」

 空を眺めたまま、お清は答えた。

「そりゃ、多少はね。でも、いきなりあんな振る舞いをされたんじゃ、誰だってとまどうわよ」

「じゃあ…急に笑わなくなったあなたを見て、とまどった人もいるかもしれないわね」

 その言葉は、女中から主人に対してではなく、同年代の友人として、“私” という一人の人間にかけられたものだった。

 思わず、空から視線をそらし、お清を見つめる。すると、彼女も私を温かなまなざしで見つめていた。

「どういうこと?」

「あなたのお母様やお父様、それから守ノ局様だっているでしょう。お節様やお鈴様、それに他の女中たちだって」

 そう言われると、なぜか居た堪れなくなって、私はふたたび目をそらす。

「それは…。でも、お節やお鈴はないわ。だって、彼女たちは私と海之進様を…。それに、あなたたちとも近づけまいとしてたわ…」

 頭上から、大きな溜息が聞こえた。

「何も分かってないのね。ええ、あなたは何も分かってらっしゃらないわ」

「何がよ?」

 私はお清に詰め寄った。私、何か間違ってる?

 あのときは母様が助けてくれたからいいものの、お清は私と離れ離れになったとしても平気なの?

 けど彼女は、首を横に振った。

「あなたが海之進様と一緒に遊ぶようになってから、とても楽しかったのは分かるわ。けどそれ以前に、あなたと遊んでくれていた人を忘れたわけではないでしょうね?」

「あ……」

 そうだ。それは、紛れもなく兄様だった。そう…あの頃の私は、兄様が大好きだった。

「で、でも兄様は、私と海之進様にいじわるをしたのよ!!私、それでも笑って許してくださる彼が可哀相で…」

 そう…兄様は、私と彼に散々ひどいことをしてきたという事実を、忘れてはいけない。

 怒りに燃えあがった私を、お清は諭すように言った。

「花ノ介様は、大好きな妹であるあなたと一緒にいられたことが嬉しかったの…とても楽しかったのよ。それなのにあなたは、海之進様のもとへ行ってしまった…。これって絶対寂しかったんだと思うわ」

 彼女の穏やかな視線に、胸のあたりがちくちくし始める。

「兄様が…そんなこと…。ううん、あの兄様に限って、そんなことあるはずないでしょ」

 お清は、ふたたび溜息をつく。

「姫様、人は思ったよりもずっと脆くはかないものなんですよ。現に兄上様がいじわるするようになったのは、姫様が海之進様とばかり遊ぶようになってからじゃありませんでした?」

「それは…そうだけど…」

 お清はやっぱり不思議だ。当時彼女はまだこの城にはいなかったはずなのに…なぜか何でも分かってしまうらしい。

「やっぱりね。花ノ介様は、大好きな妹をとられたと思って悔しかったのよ。それと、あなたが遊んでくれなくなったことが寂しかったんだわ」

 お清の言う通りなのかもしれない。私にも非はあったのかもしれない。けど、そんなの認めたくなんてなかった。

「でも……でも兄様は……!」

 あの日から堪えていたはずの涙が――どんなことがあっても泣くまいと堪えてきた涙が、みるみるうちに溢れだす。

 お清は、そんな私の肩を優しく包み込んでくれた。

「きっと兄上様はまたここにいらっしゃるわ。もう一度話して御覧なさい。あなたにとっても、このままでいいはずがないもの」

 お清の腕の中で、私は一つ頷いてみせた。そして今まで溜めこんだ分を吐きだすかのように、私は泣いて泣いて、泣き続けた。


――きっと大丈夫。きっと明日こそは言える…。私、兄様に謝らなくちゃ。

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