『悲しい秘密』(3)
【三、お照の話~彼女との出会い~】
あれは……今から30年くらい前になるかしら。その日は暑い夏の日だったわ。
当時は私もまだ二十歳(はたち)前後で、結婚したばかりの夫……つまり尚のお父さん――今は仕事の関係で店を離れているけれど――と二人で店を始めたばかりのころだった。
ある日のこと。夫が店番をし、私が店先を掃除していたところに、赤ん坊を抱いた美しい女性が現れたの。
女性――ううん、その若さからしてみれば、あれは『少女』といってもいいかもしれないわ。
彼女は美しかったけれど、気のせいか少しやつれていて、元気もなさそうに見えた。だから、私は迷わず声をかけた。
「大丈夫ですか?」
すると彼女はか細い声で、渾身の力を絞り出すように答えたわ。
「この子に……この子にお乳(※)を与えてやってもらえませんか……」
けれど終いまで言うか言わないかのうちに彼女は倒れ込み、私は慌てて彼女と赤ん坊の体を抱きかかえた。
思わず触れたその体は、若くみえる年齢のわりには痩せ細っていて、これはただ事じゃないと察したわ。
だから私は彼女と赤ん坊を部屋の奥へ連れて行き、二階の布団の上に寝かせた。
そのときにね、いきなり、その赤ん坊が泣きだしたのよ。
けど幸い、私には幼いときに小さな弟妹を面倒見ていた経験があったから、すぐに分かったの。
「まあ、どうしたの?おしめが濡れた?ううん、これは……お腹が空いたのね。わかった、すぐに用意するわ」
そうして慣れた手つきで赤ん坊を抱きかかえると、その子は安心したのか私の腕の中ですやすやと眠ってしまって。
その寝顔は、天使みたいで。とっても可愛かったわ。
赤ん坊が眠ったのでお姉さんの眠る布団のそばに寝かせてやると、二人は理想の姉妹か…もっといえば理想の母娘(おやこ)のように見えた。
けどその反面、さっきの彼女の様子が胸につっかえていたの。
「この子にお乳を与えてやってもらえませんか」というか細い声。少しやつれたような美しい顔。
一体、彼女に何があったのだろうと…。
「今は……ゆっくりお休みください、ね」
独り言のように、私は二人の寝顔に向けてそっと呟いた。
※補足 おそらく、近所の授乳期の女性からのもらい乳だと思われる。
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