『悲しい秘密』(1)
【序章】
城下町の外れ。達筆な文字で『たいら』と書かれた暖簾を店先から下ろしながら、ふと女将は溜息をつく。
彼女が店の常連である井助に自らの打ち明け話をするのは、もっとだいぶ先の話になる。
6歳の頃に自ら遊女を志し、20歳のときに遊廓を飛び出して、もうすぐ30年。あのときの娘は、どうしているだろうか。
「なんて、私が言えたことじゃないわね」
まるで誰かに語りかけているような、そんな口調だった。だが、店じまいしたあとのこの店には、客は誰もいない。
「捨てたのは、私の方なのに。どうして今更こんな気持ちになるのでしょうね」
彼女の独り言に答えるように、庭の桜紅葉が夕日を受けて、ひらりと風にそよいだ。
【一、商家の娘】
「ただいま」
私は数ヶ月ぶりに、自宅兼店の戸をくぐり抜けた。私の家は、城下町にある小さな商家である。
「あら、尚(なお)。どうしたの?急に帰ってきて、何かあったの?」
店の奥から母が顔を出す。彼女が驚くのも無理はない。
なぜなら私は数ヶ月前、西ノ森(にしのもり)城の奥方様に頼まれて、姫様の専属女中としてずっと城で暮らしていたのだ。
姫様を笑わせるという任務を果たせていないから、まだ当分いるものと思っていたが、今朝、奥方様から突然帰省命令を出された。
彼女がいうには、一度実家に帰れば多少は息抜きになっていいだろうとのことらしい。
それならどうせだから楽しもうと思って、思い切って帰って来たわけだ。
「休暇をもらったのよ、今日と明日の二日間しかないけれど。久しぶりにお母さんの娘に戻れるわ」
「まあ、そうだったの。それじゃあ、今晩は尚の好きなおかずにしようかしらね」
母はそう言って張り切り出す。そういうところも、相変わらずだ。
「嬉しい!ああ……お夕飯が待ち遠しいわ!――と、先に荷物置いてくるわね」
店の奥、住居空間へと繋がる通用口に立つ母の横を通り抜け、私はその奥の茶の間へ進む。
中央の小さなちゃぶ台を箪笥と食器棚に挟んでいる、狭苦しい四畳半の部屋だが、私にはこれが慣れ親しんだ居心地の良い空間だった。
私は部屋の隅に抱えていた荷物を置き、ふと、脇の箪笥と壁の間に一枚の封筒が挟まっているのに気付いた。
思わず、封筒を手に取る。破かないように慎重に……わずかな隙間から抜き取った。
手に取ってみて、今度はその封筒をまじまじと見る。
鮮やかな花(あとで知ったところによると、この花は薔薇(※)というらしい)が描かれている、綺麗な封筒。
その上に、華奢な字で書かれた『お照(てる)さんへ』の文字……母の名前だ。
母宛の手紙を勝手に開けるのはどうかとも思われたが、どうも気になって、恐る恐る開けてみた。
するとそこには、封筒と同じ薔薇の絵が描かれた便箋に、宛名と同じ文体でこう記されていた。
※補足 一説によると、江戸時代にも薔薇の花はあったらしいが、「薔薇」という名前はまだ浸透していなかったという。
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