『哀しき遊女』(4) 【終】


【後編:女将の秘密】


「素敵なお店ね。私、ここが気に入っちゃったかも」

女将は何も言わない。それどころか、目も合わせようとしない。どうもいつもの女将らしくない。

それは、たった今入って来たこの女性のせいだろうか?彼女は何者だろう?名前は?

名前…さっき女将が言っていたような気がする―――そうだ、“菊花”だ。

彼女を見た瞬間、女将はとっさにそう言った。だとしたら。

「あなたが、菊花さんですか」

「えっ……」

彼女は大きな目を見開き、私を見る。

「どうしてその名前を……」

「いえね、さっき少しあなたのお話を聞かせていただいたものでしてね……そこにいる女将に」

「女将?」

彼女は体をひねって、女将の方を振り向く。しばらく眺めてから、思い出したようにあっと声を上げた。

「お恵ちゃん?」

女将はゆっくり目を伏せると、小さく頷いて、そして言った。

「はい……お久しぶりです、菊花姐さん。こんな形で再会することになってしまって、申し訳ありません……」

やはりそうだったのか。

だが、決まり悪そうにしている女将を、菊花は責めなかった。

「どうして謝るの?あの日突然出て行ったあなたを、この私が恨んでいるとでも?そんなの絶対にないわ」

女将は何も言わない。口をぎゅっと引き結んだまま、ただ足元の一点を見つめている。

「でも、お恵ちゃん、元気でやってたのね。何しろ30年以上も会っていなかったから、もう会えないかと思ってた……」

菊花が笑うと、女将の顔もややほころんだ。彼女は話を続ける。

「そういえば、娘さんはお元気?私は赤ちゃんの頃の彼女しか見たことがないけれど……もういい年になってるわよね」

女将の顔が、ふたたび引きつる。さっきの話が本当なら、娘などここにはいない。連れてこようにも、できないのだ。

「きっと、お母さんに似て美人になってるでしょうね。だってお恵ちゃんの娘だもの」

そのとき、ゆっくり開いた女将のその小さな口から、蚊の鳴くような声がもれた。

「ごめんなさい……」

「え?」

頭に疑問符を浮かべたような顔で、菊花は訊き返す。そんな彼女の目もろくに見れぬまま、女将は尚も謝り続けた。

「ごめんなさい……。ごめんなさい、私……」

彼女の瞳から、ほろりと涙が落ちる。そのしずくはやがて川となって、彼女の頬を流れた。

「あんなに世話になったあなたのもとを……あんなに信頼していたあなたのもとを……私は飛び出してしまった。それだけじゃない。私は―――大切な娘のことも、あの日泊った小さな商家に置いてきてしまったの…」

女将は、顔を両手で覆い、そばに菊花や私がいることも忘れたかのように無心に泣き続けた。

そんな彼女を、私はもはや黙ってみていることしかできなかった。

おもむろに菊花が立ちあがり、机越しに女将の震えた肩を包む。

「大丈夫、大丈夫よ……。そうだったのね。お恵ちゃん、いっぱい抱え込んでたのね…。大丈夫、もう大丈夫だから」

「菊花、姐さん…」

女将の涙が、菊花の肩を濡らした。

「ありがとう、話してくれて。辛かったでしょう。寂しかったでしょう。もう大丈夫よ、私がそばにいるわ」

引きつけを起こす彼女の背中を、菊花は優しく撫でる。それはもう、母のように。

おそらく、女将がまだ『お恵』と名乗っていた時代…また『平太夫』と呼ばれる遊女だった時代…。

家族のもとを離れたお恵にとって、唯一の信頼できる人間だった彼女は、母親代わりの存在だったろう。

そして今、かつてお恵だった女…小料理屋『たいら』の女将その人は、母同然の女性の腕の中で幼子(おさなご)のように泣きじゃくっている。

私はこんな女将を、これまでに見たことがなかった。

そして女将は私に、自らの秘密を打ち明けてくれた。おそらく私が口の堅い男であることを知って。

明日になれば、いつもの女将に戻っているだろう。今晩聞いた秘密も、今後決して口に出されることはないのだろう。

机の端にお代を置いたまま、二人の邪魔にならぬよう、私はそっと店を出た。

1コメント

  • 1000 / 1000

  • ゆかれっと

    2023.08.19 13:05

    【つばさ様より】 こんにちは!! どんな事情があったのかは、わからないけれど、お恵ちゃん(女将)が遊郭を出たことや、一人娘を手放してしまったことには、お恵ちゃんにしか、わからない理由があったんだろうなぁと想像したよ!! どんな人でも、一つや二つ、辛い何かを抱え込んでいる・・・そう思わせ考えさせられたよ(´・ω・`)