『哀しき遊女』(3)
【中編:女将とお恵】
「それで、彼女はどうなったんだい?」
私はもう、肴(さかな)の乗った皿に手を付けることも忘れて、女将の話に聞き入っていた。
だが彼女は席を立って、調理台へ戻りながら言う。
「それで終わりよ。このあとの女の消息は、誰にも分かっていないの」
「そうか。元気で暮らしているといいね」
私はそれだけ言って、ふたたび料理に手を付け始めた。酒を楽しんでいると、ふと、女将が呟く。
「……元気よ、たぶん」
「え?」私は顔を上げて彼女を見た。
せわしなく動かしていたはずの彼女の手が止まり、視線はどこか遠くの一点を見つめている。
「たぶん元気でいるわよ、その人。私の勘がそう言ってるもの。私、こういうことには鋭いから」
「その人、女将の知り合いかい?」
「いいえ……知らないわ」
呆然としたまま、彼女は力なく答える。どうも様子がおかしいが、これはもしやと思った。
花魁・平太夫となった少女…お恵とは、もしかしたらこの女将のことではないか、と…。
「あ、そうだわ」突然、女将が声をあげた。目をぱちくりさせている。
「うん?どうしたんだい?」
「もう一つあったわ。その、お恵さんの話」
彼女が町を出て行ってから10年後のこと。
女は30歳になって、ふたたびこの町に戻ってきていた。けど隣に娘の姿はない。
「お恵ちゃん?」
ふいに声をかけられ、振り向くと、そこには遊郭に入る前仲の良かった庄屋の娘・お柴(しば)の姿があった。
左手には小さな手が握られている。
「久しぶりね。もう24年くらいになるかしら?」
「そうね」
最後に会ったのがお恵6歳、お柴5歳だったから、ちょうどそのくらいだ。ということは、お柴は今29歳か。
「こっちはうちの娘。ほら、きよ、挨拶して」
母親にそそのかされ、少女が答えた。
「清(きよ)です、よろしくおねがいします」
お清……母親に似て色の白い、また母に似ず大きな瞳を持つ娘。年は七、八歳くらいだろうか。
お恵はふと娘のことを思い出した。生きていれば、あの子もそれぐらい…いや、もう少し上だったか。
10年前…店を飛び出したあの日の夜、自分を泊めてくれた商家に置いてきてしまった、愛しい娘。
もうそんな思いはとっくに断ち切ったはずなのに、何故かお恵の目には涙が溜まっていた。
そして話し終えた女将の目にも、溢れんばかりの涙が溜まっていた。すかさず、私は手ぬぐいを差し出す。
「ありがと、井助さん…」
手ぬぐいで顔を覆い、彼女はすすり泣く。こんな彼女を見たのは、初めてだった。
やがて彼女の涙がだいぶ落ち着いてくると、私はそっと声をかけた。
「……大丈夫かい」
「ええ、もう大丈夫よ……ありがとう」
その声にはやや涙が交じっていたが、彼女は涙を拭いて無理矢理笑顔をつくった。
いつまでも泣いてはいられないと思ったのだろう。そんな芯の強いところが、実に女将らしい。
けれど今日はもう、御暇(おいとま)しようと思った。
彼女の場合、一人の方が思う存分泣けるだろう。そばにいて支えてやるのは、別に明日でも構わないのだから。
「それじゃあ、今日はこれで失礼するよ。女将も今日は疲れたろう、ゆっくりお休み」
そう言って席を立つと、扉がガラガラと音を立てて開き、戸口から美しい顔が現れた。女将の顔が蒼白になる。
「菊花姐さん……?」
目は大きく見開き、紅を塗った小さな唇は震えている。
今入ってきた美人は軽く私に会釈すると、さっきまで女将が座っていた席にそっと腰を下ろす。
こうして真横から見ると、その女の顔ははっきりと分かった。
色白で頬骨はやや高く、目鼻立ちがくっきりとしていて、どこか異国の雰囲気を感じさせる。
私はもはや、店を出るタイミングを完全に失ってしまっていた。そんな私をよそに、彼女は女将に言う。
「こんなところにお店があるなんて知らなかったわ。とりあえず、日本酒いただける?」
「あ……はい。ただいま」
女将は未だ震える手で日本酒を注ぐ。その姿を、私は不覚にも黙って見ていた。
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