『笑わぬ姫君』(10)

 その頃、城下では一人の男が有名になっておりました。

 なんでも、優秀な武士らしいのですが、その端正な顔立ちと身も凍るような長身を持つとかなんとかで、その辺の町娘たちを一瞬にしてとりこにしてしまっているようなのです。それでいて、まったく相手にしない非情な心をお持ちだとか。

 私は風の噂にしか聞いたことがありませんが、なんて男なのだろうと思いました。それと同時に、ぜひ会ってみたい…とも。

 偶然なのか、ある日その男が城に訪ねてきたのです。

 それはそれは噂よりもはるかに美しく、それでいて冷たく恐ろしい殿方でした。女中達の中には、その鋭い眼差しにやられて卒倒した者もいます。

 だけれど彼はそんなことには構いもせず、一言も発せぬまま、ただ一目散に姫様のもとへ向かい、ある一枚の文を差し出しました。


「これを…。海之進からあんたへだ」

「海之進様から……?」

 待ち焦がれていたはずの、幼馴染からの手紙。恐る恐る、姫様は封を開けました。

 けれどそこには、『ごめん』の文字が。

 これは後から姫様に聞いたのですが、そこには外国へ使節になった海之進様が、想像以上に向こうでの仕事が長引いたから、帰ることができなくなったと書かれていたそうです。

 案の定、姫様は肩を震わせて、丸めた手紙をあの武士へ投げ付けました。

「こんなもの、いらない!こんな紙切れ寄越すくらいなら、海之進様を連れて来てよ!」

 その目には、いっぱいの涙が溜まっておられました。

 彼は顔をしかめて、足元に落ちた手紙を拾い、掌で薄くのばして、それを姫様の手の中へ無理矢理握らせました。

「…とにかく、これはあんたのものだ。じゃあ、確かに渡したからな」

 そう吐き捨てると、呆然と立ちすくむ彼女を置いて、さっさと帰って行きました。

 そこにやってきた私とすれ違った彼は、冷ややかな目を私に向けると(私はその女中たちと違って卒倒などしませんでしたが)、一言も発せず去って行きました。


 残された私は、迷わず姫様がいるその場所へ急ぎます。彼女は、泣いておられました。

 訳は前述の通りなのですが、このときの私はそんなこと知りもしませんでしたから、何かあったのかと思いました。

 私は慌てて駆け寄り、

「大丈夫ですか、姫様?」

 そう問いかけてみましたが、姫様は顔をしかめ泣き続けるばかりで何も言いません。

 ふとそのとき、彼女が握りしめている手紙の存在に気付いたのです。やはり何かある――あの武士は、いったい姫様に何を話したのだろう?

「元気を出して下さい。そうですわ、また、お忍びで城下に行きません?そしたらきっと悲しい気持ちも晴れますわ」

 私はそう言って慰めたが、彼女は依然として泣き続けたままだ。

「お節様とお鈴のことなら、心配いりませんよ。彼女達ももう分かってますから」

 すると、姫様は小さく、一つだけ頷く。

 半ば強引ではありましたが、私はお尚を連れて(着替えて)そのまま姫様と城下へ向かいました。

 そこでまた、例の武士に出会ったのです。けどそれより、姫様には驚くべき顔がありました。彼が連れていた男のことです。

「兄様…」

「ナオ…」

 二人とも驚いた様子でしたが、その顔はあまり嬉しそうではありません。

「ねえ、今、尚って言わなかった?なんで私の名前知ってるんだろう?」

 そう言うお尚の声も、誰の耳にも入りません。(ただ、あとで聞いたところによると『ナオ』というのは『直』と書き、姫様の幼名であったそうです――まあ、姫様に向けて言っていたので、お尚のことでないことは彼女以外みな分かっておりましたが)

 姫様は花ノ介様と思しきその男を睨みつけたまま、目に涙を浮かべ、肩を震わせる。

「何しに来たの。どうして今更私の前に現れるのよ。どうして海之進様がいないのよ!」

「それは…」

 けれど、姫様は弁解のすきを与えません。

「なにも聞きたくないわ!私がお慕えするただ一人のお方をいじめる、いじわるな兄様なんて、大きらいよ!もう金輪際一切私の前に現れないで!隣にいる、あなたもよ!」

 花ノ介様、そして隣のお侍様と順に視線を送り、怒った様子で彼女は背を向け、そそくさと帰路をゆきます。

 私は慌てて姫様を追いましたが、お尚は気が抜けたようにしばらく花ノ介様のお姿を見つめておりました。

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