『姫君は算術がお好き?』(14)
14.待ちわびた再会
数年後、いつものように女中の仕事をしていた私のもとに、思わぬ訪問者がやってきた。
「香坂、さん……」
忘れるはずがない、あの無愛想な整った顔。もう二十代後半になっているはずなのに、その姿はあの頃と変わらないままだった。
「お帰りなさい」
彼が私のそばを通り過ぎる間際、そっと呟く。けれど、彼は私に目もくれず、さっさと城の奥へ行ってしまった。何よ、せっかく久しぶりに会えたのに……。
私が落胆する思いで女中部屋に入ると、女中仲間の一人が言った。
「あのお侍さん(香坂さん)は、藤姫様の兄の花ノ介(はなのすけ)様と、その幼馴染だった海之進(かいのしん)様のご友人らしいわよ。今日来たのは、姫様に海之進様からの文(ふみ)を届けるためだったんですって。それだけのために遠くから来るなんて、彼は本当にご友人想いなのね……」
言って、彼女はうっとりしたように微笑む。つられて他の数名が陶酔し出し、話は香坂さんの素敵なところ発表会と化(か)した。やっぱりあの鋭い眼差しがたまらないわ、とか。すらりとした長身の殿方っていいわよね、とか。いやいや、ああ見えて実は優しそうなところがあるのよ、とか。とにかく話題が絶えなかった。
――でも私は、彼女達が見たことない彼の姿を知っているわ。
無愛想で皮肉屋だけれど、真面目で一生懸命なところとか。ちょっぴり照れ屋で、意外と可愛いところとか。あの日――お陽が亡くなった次の日、彼がふいに見せた、さり気ない優しさとか。彼女達ではないが、私も考え出したらキリがなかった。
それでもその話は、この数日間、城中の持ち切りだった。が、ある日を境にそれはパタリと止んだ。
「ねえ、もう聞いた? 藤姫様と花ノ介様が、旅に出るんですって。そのお供に、香坂様もついて行かれるらしいわ。早速明日、出て行かれるとか……」
「嘘だわ!」
思わず、声を張り上げた。せっかく帰って来た彼が、またいなくなってしまうなんて……そんなの信じたくない。
涙をこらえて裏庭に走ると、そこには一つの人影があった。お陽の墓碑の前に、誰か立っている。
気配に気付いた人影が振り向いて、私はあっと声を上げた。
「香坂さん!」
途端に、こらえきれなくなった涙が一気にあふれ出す。彼の胸に飛びつきたい衝動をこらえて、私は言った。
「お、お久しぶりね」
震える唇で、ようやく出たのがその言葉。もっと他に言いたいことがあるのに。もっと他に話したいこともあるのに、その続きは言えなかった。
――今までどこに行ってたの? どうしてまた行ってしまうの? 私のこと、忘れちゃったの?
問いばかりがぐるぐると頭の中を渦巻いて、その言葉を告げる勇気が出ない。
私が黙っていると、彼はゆっくり近づいてきて、袖の間から小さな包みを出すとそれを私に差し出した。
「何、これ」
彼はあごをくいっと上げ、私に開けてみろと合図する。
私は彼の手からそれを受け取って、恐る恐る開けてみた。豪商と名高い「大中屋(おおなかや)」の印字が入ったその包みには、蒔絵が描かれた赤漆(せきしつ)の挿し櫛が包まれている。
「素敵……」
ふと顔を上げると、彼がさっと目をそらす。照れているという証拠だ。
「で、何なの、これ? “結婚の申し込み”(プロポーズ)のつもり?」
「そんなわけあるか!」
私の冗談にも本気で顔をしかめる彼が、たまらなく可愛いと思う。
「やあね、冗談に決まってるでしょ。私にはもう、愛しの旦那様がいるんだから」
そう言ったら、冗談に聞こえない、と言いたげな顔で睨みつけられた。ふふ、本当可愛い。
「……あんたには世話になったからな。それに、あんたが大切にしていたという櫛も、私が貰ってしまったから」
「あら、それで気を遣ってくれてるの?」
彼が口をつぐむ。恐らく、何と返してよいか分からなかったのだろう。でもそんなことは、私にとってそれほど重要じゃなかった。
「ねえ、あのとき見つけられなかったものは見つけられた?」
彼が、小さく頷く。
「ああ。なんとなくだがな」
「そう……。だったら、きっと今頃、天国のお陽も喜んでいるわね」
「それも、なんとなく分かる気がするな」
彼が微笑み、つられて私も微笑む。彼は私を忘れたわけではなかった。私のことも、お陽のことも、ちゃんと覚えていてくれていた。だからこそ、明日彼が旅立ってしまうのを余計寂しく思う。
「あなたは、また旅に出られるのね……」
「ああ。花ノ介と海之進との約束だからな」
「そう……」
悔しいけれど、その言葉には強い決意があった。
「分かったわ。気を付けて行ってくるのよ」
ふっ、と彼が笑う。まるで、それが私らしい言い方だと言うように。それも、はっきり言葉で示さないところが彼らしい。
――ありがとう。
心の中で付け加える。そしてこの小さな気持ちに、そっと別れを告げた。
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